伝水野勝成奉納の鎧兜、修復成る

昨年5月から修復のため刈谷を離れ横浜へ旅立っていた「伝水野勝成奉納の鎧兜」が、今年2月に修復完了し無事に刈谷市歴史博物館へ帰ってきました。そこで刈谷市指定文化財であるこの鎧兜を後世に伝えていくために、これまでの経緯について振り返ってみます。   

「刈谷城主水野勝成は、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦出陣を前に野田八幡宮の本社・拝殿・鳥居を残らず再建し、青銅五貫文、米3俵を神納して武運長久を祈願し、更に出陣に際し鎧兜を奉納して戦勝を祈願した」と伝えられています。

この鎧兜は江戸時代の古文書に書かれ、昭和初期の書籍に「水野勝成所用の甲胄」として紹介されたこともありましたが、その後、鎧と兜は分離して保管されていたため一対であることが不明となり、兜のみが昭和59年(1984)に「水野勝成奉納の総髪の兜」として刈谷市指定文化財となりました。

21年後の平成17牛、武具甲胄の専門家が野田史料館を訪れた際、「総髪の兜」だけを文化財として指定展示されていることに疑問を抱き、帰って調査したところ昭和初期の書籍に「水野勝成所用甲胄 三河国野田八幡宮所蔵」として写真入りで紹介されていたため、再度、野田史料館へ来館し館内に保管された他の鎧兜などとの組合せを調べたところ、分離して保管されていた鎧が「総髪の兜」と一対であるものと判定し、そのことを甲冑専門誌に写真入りで論説紹介されました。

これを契機として文化財指定への動きが始まり、平成28年(2016)及び平成30年(2018)に刈谷市の協力の下、専門家に調査して頂いたところ、兜と鎧に使用されている金具の一致や放射性炭素年代測定結果の近似、様式の古さや緘糸の染め・色・織りや漆喰に高い共通性が認められる事が確認され、両者が一対のものと判断されたため、改めて鎧及び付属品を追加し平成31年(2019)に刈谷市指定文化財となりました。その際、これまでの名称「総髪の兜」から「鉄錆地塗紺糸縅塗込仏胴具足・尉頭形兜(伝水野勝成奉納)」にと鎧兜一式での名称変更となりました。

このような経緯で刈谷市指定文化財となったものの、鎧兜は野田八幡宮へ奉納されてから長い年月を経ており、納められた神社建物が明治維新後は主たる庇護人の当てもなく老朽化し、更に伊勢湾台風で多大な被害を受け崩壊・破損・雨露を凌ぐさえもままならぬ状態となり、鎧兜の保管場所が幾度か移動したこともあり、傷みは激しいものとなっていました。そのため文化財として末永く保存管理していくには忍びない状態と判断されたため、三菱財団補助金を活用し専門業者(横浜市の西岡工房)に依頼をしたものです。

現在、この鎧兜は野田八幡宮から刈谷市歴史博物館に寄託中のため、今後は多くの方々にご覧頂くことができるよう、歴史博物館で常設展示されることが望まれます。

〔野田史料館報第163号より〕

写真は甲冑師熱田伸道先生と推定復元された鎧兜です。
先生の説明動画はこちらから視聴いただけます。