野田八幡宮の由緒

第四十代天武天皇の白鳳五年(676)に大市郷今留丘に創建と伝えられ、今留明神,大郎子尊,八波多神,物部の祖神を併せ祭った。
第五十二代嵯峨天皇の弘仁四年(813)中原敏久が神田を寄進する。
第五十三代淳和天皇の天長四年(827)三河国司、神田を献じ社殿を修造した。
第九十三代後伏見天皇の正安二年(1300)社殿を大改修し、整備復旧に努めた。
第壱〇五代後奈良天皇の天文十七年(1548)と天文二十三年(1554)の再度にわたる兵火により、社殿は荒廃したが、刈谷城藩主水野勝成公これを深く痛み、慶長五年(1600)社殿を造営し、以後は祈願所として歴代の水野、稲垣、三浦、土井の各藩主に尊崇された。特に寛政四年(1792)に野田村が福島藩重原領となってからは板倉氏の総氏神として崇められた。
明治五年(1872)には郷社として、昭和二十一年(1946)六等級、平成十七(2005)五等級となる。
現在の社殿は明治十七年(1884)に幣殿・拝殿、昭和十二年(1937)に神殿、平成十四年(2002)三月幣殿を各改修した。

野田八幡宮は